名前の由来は、この橋の上にシャンジュー(両替証人)たちが居を構え、農業収益を金に換えていたためであった。当時は宝石商、彫金師、両替商が橋の上に ぎっしりと店を連ねていて、橋からはセーヌ川が見えなかったという。この橋は1621年に火災で焼け落ちてしまうが、橋の上に住む商人たちが資金を出し合 い1639年から1647年の間に7つのアーチのある立派な石造りの橋が架けられた。これは当時パリでもっとも幅の広い橋であった。1740年に改築され るが、1786年、橋の上の建造物は最終的に取り壊しとなった。

オ・シャンジュ
ところで、シテ島を横断してシャンジュ橋を渡ると、シャトレ広場となるが、この場所はかつて牢獄であり、リヴォリ通りを超えた先は、長い間、墓地だった。 墓地を持たないパリ中の教会区から死人が運ばれて来る死体置き場には、屍が山と積まれていたという。そして、そこから少し入ったところに12世紀から市が 立っていたが、16世紀以降、食品専用の市場となった(現在のレ・アル駅付近)。

 

そのため、この近辺には食肉用の屠殺場も設置され、動物の血糊と屍骸、生 暖かい臓物の匂いが充満し、一方、牢獄では拷問された罪人たちの断末魔のうめきや叫び声が響く・・・オスマン男爵が 1850年代にパリ改造計画を始めるまで、ここは、パリで最も恐ろしく、いかがわい一帯だったのである!

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1855年、死体置き場は噴水のある広場に、食品市場はパリ中央卸売市場に生まれ変わった。エミール・ゾラ(1840 – 1902年)言うところの「パリの胃袋」だ。そこで夜中から朝まで働く労働者たち。彼ら馴染みのレストランが出す安くてうまい料理目当てに市民も どっと詰めかけ、レ・アルは活気に溢れた。

時代が下って1969年、「パリの胃袋」中央卸売市場は郊外のランジスに移転し、レ・アル界隈は少し寂れてしまう。その跡 地にフォーラム・デ・アルという一大ショッピングセンターが出来るのが1977年。同じ年に超現代的な建物ポンピドゥ・センターが建って賛否両論、話題を さらう。それから40年経った今、レ・アルはふたたび工事中だ。

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その北側奥には、パリでも有数の規模を誇るゴシック様式の由緒あるサント・ユスタッシュ教会がそびえている。(その4に続く)